徳川家康と長久寺

今年、令和5年のNHK大河ドラマは「どうする家康」。長久寺(彦根市後三条町59)境内に家康公が「ご覧」になったことから「御覧の梅」と名付けられた梅の木がある。推定樹齢800年、平成18年彦根市指定保存樹木に指定された紅梅だ。
城下町の西、雨壺山(あまつぼやま)の麓にある長久寺は、高野山の善應僧都によって長久3年(1042)、平安時代に開創された寺である。延久年間(1069〜74)、後三条天皇の帰依あつく、皇后の祈願所となっていた。江州彦根観音とも呼ばれ、観音堂に本尊千手観世音菩薩(聖徳太子作伝)を祀る古刹である。創建当時は天台宗の大寺だったが、永正7年(1510)京極・六角氏の佐和山合戦の兵乱によって全てが焼失し往古の面影は残っていない。『長久寺記』に、本尊の千手観音は兵乱により泥水の中に棄てられていたのを、後三条村の民が杉の木の下に筵(むしろ)を敷いて安置し、形ばかりの草庵を結び奉祠した。毎年、正月三ヶ日の間、本堂の縁に新筵一枚を敷くのは、この故事によると記されている。
さて、鎌倉時代建久2年(1191)源頼朝が上洛の途中、大堀村でオコリを病み、長久寺山の鎮守で祈願したところ快癒した。頼朝は感謝し、長久寺に自ら紅梅を植え崇めたと伝わる。「御覧の梅」は、関ヶ原の合戦後、佐和山城攻めの際、平田山に陣を置いた徳川家康が、佐和山城落城後に「ご覧」になったのでこの名がある。

御覧の梅

雨壺山というのは、長久寺山(観音山)、布引山、天王山、平田山などから構成される低山群の総称だ。かつて山頂に小さな窪みがあり、雨が降ると池ができ、数日間は水を湛えていたといわれ、雨壺山の名の由来となった。現在、佐和山、金亀山が見てとれる場所に東屋が設置されている。おそらく、徳川家康とともに井伊直政もこの場所に立ったに違いない。

雨壺山東方展望台より彦根城を望む

彦根藩と長久寺

彦根藩は長久寺を彦根城堅固・福徳安全の祈願寺と定めている。代々の藩主、家老、先覚者の帰依が深く、荒廃していた寺は井伊家の家臣により再興がなされた。
寛永6年(1629)本堂建立、寛文9年(1669)鐘撞堂が沢村角右ヱ門により建立、享保16年(1731)には奥の院として山上に慈眼閣が西郷・木俣・中野の三家老によって建立され、阿弥陀如来像や五百羅漢等を安置。そのほか、延命地蔵を西郷家が、稲荷明神(勝扇大明神)を藤田治郎左ヱ門が、弁財天社を庵原家が寄進している。
本堂について明らかな記録はないが、高欄擬宝珠に「奉寄進寛永六己巳五月吉祥日庵原主税助朝真」と陰刻銘があり、建築様式手法も江戸初期のものと考えられている。小堂ながら均整のとれた建物で、妻飾や枓栱(ときょう)、蟇股(かえるまた)の彫刻などに見るべきものがあり、桃山形式を受け継いだ江戸時代初期仏堂の好例として、県指定文化財に指定されている。

長久寺本堂(観音堂)/ 江戸時代初期 滋賀県指定文化財

毘沙門天立像 / 平安時代 彦根市指定文化財 2020年撮影

不動明王立像 / 平安時代 彦根市指定文化財 2020年撮影

観音堂の本尊千手観音立像(室町時代)の脇侍像で、観音を中央に向かって右に不動明王、左に毘沙門天を配する天台系の組み合わせである。両像とも忿怒像としては動きの少ない静かな姿態にまとめられ、全体に穏やかなモデリングを施している。相好(そうごう:表情・かおつき)も直接怒りの表情を露にするのではなく、内におさえるように抑制し てあらわされ、忿怒像までも優美な感覚で作りあげようとする平安時代後期の傾向をうかがうことができる。

お菊の皿と長久寺

長久寺には歴史を物語る石碑や塚、記念物が多く残されている。
例えば、「山本聖與君之碑」。明治政府の行政書記官、滋賀県の要職を歴任した山本聖與の人徳を永く顕彰することを願い、彦根藩最後の藩主井伊直憲公が額を書き、谷鉄臣が撰文、彦根藩が生んだ明治の書聖日下部鳴鶴の筆による石碑である。「堀巌山文塚」。頼山陽の門人。彦根藩士真壁氏の子として生まれ、芸藩(広島)の儒者堀杏庵の養子となり、多くの功績をあげたが、31歳で病のため亡くなった人物である。「龍草廬文塚」。龍草廬は、江戸中期を代表する儒学者・漢詩人である。宝暦6年(1756)藩の儒学者として採用され、以来約20年間、彦根で暮らした。龍草廬文塚の辺りは、かつて行者堂があり、明るく開けた草地の向こうに湖が見える。龍草廬の愛した風景である。
そして、夏が近くなると、毎年何処かのメディアが取り上げるのが長久寺に遺された「お菊の皿」である。怪談「番町皿屋敷」は日本各地に同じような伝説が残されているが、彦根には実話が伝わっている。寛文年間(1655〜1672)、彦根藩主井伊政澄の代に実際にあった悲恋(純愛)物語だ。孕石(はらみいし)家の当主政之進と芹橋14丁目の足軽の娘お菊の話である。
菊は孕石家の侍女として働いた。政之進には亡き親が取り決めた許嫁がいたが、二人は深い仲となっていた。後見人の叔母が許嫁との挙式をせきたてるため、菊の心中は穏やかではない。思案余って、孕石家代々に伝わる白磁の皿10枚のうち1枚を故意に割ることで、政之進の本心を確かめることにした。政之進は、自分の心を疑われたことが口惜しく、武士の誠を試そうとしたことに憤慨し、菊の面前で残りの皿九枚を柄頭(つかがしら)で打ち砕き、その場で菊を手討ちにする。
その後、政之進は自ら仏門に入り、お菊の冥福を祈り続け、行脚の旅先で亡くなったという。
全国に残る数ある皿屋敷伝説のなかで「お菊の皿」、法名「江月妙心」と刻まれた「お菊墓」、彦根藩江戸屋敷の奥方女中が292名の名を連ねた「供養寄進帳」が遺るのは長久寺だけである。
ちなみに孕石家に伝わった家宝の皿は、彦根藩初代井伊直政が関ヶ原の戦いでの功により、家康公から拝領したものである。孕石家は大阪冬の陣の功により皿10枚を拝領した。皿は、中国古渡り、白磁の洋皿である。

※拝観は事前予約要 お問い合わせ ☎0749-22-0914

麓から虚空蔵堂、鐘楼堂、毘沙門堂 2020年撮影

 


参考
  • 『後三條 今昔ものがたり 』(1993年)
  • 『長久寺パンフレット』
  • 『彦根史話・下』
  • 『彦根遊び博・ 雨壺山の自然と歴史』(滋賀大学2007年)、他