2028年、彦根城は世界遺産という人類共通の至宝として、新たな歴史の地平に立とうとしている。多くの城が明治の「廃城」政策のなかで解体されていった。現存国宝五城にはそれぞれ固有の「遺り方」がある。「遺され方」と言った方がいいだろうか……。
たとえば姫路城は、明治期の処分で軍用地として「存城」扱いになり、主要建物の解体を免れたうえ、空襲でも偶然に焼失を免れた。松本城は、解体対象となった局面で、市民や教育者が中心となり保存運動が起き、買い取り・保存へつないだ。犬山城は城主一族や地元関係者による維持の力が語られる。松江城は城内の多くが撤去されるなか、天守だけを地主や元藩士が買い戻し(寄付・購入)守った。
彦根城は「明治天皇の勅命により奇跡的に遺った」とされる。しかし、歴史における「奇跡」は、人々の知略と情熱が極限まで積み重なった結果、必然として導き出される果実ではなかったか……。激動時代、なぜ彦根城がその姿を留めることができたのか、その背後にある「民の力」、井伊家特有の「精神構造」、そして「県令の知略」を紐解いてみたい。

「明治天皇の勅命」という神話の再考

彦根城保存の経緯として人口に膾炙するのは、明治11年(1878)の明治天皇巡幸に際する「勅命」のエピソードである。

明治十一年には城郭内の不用な建物が取り壊されることとなり、一部の建物が大津に置かれた歩兵第九連隊の営舎に移された。天守も八〇〇円で売却されることが決まり、足場がかけられて解体作業が始まろうとしていた。

この時、おりしも明治天皇の北陸巡幸に供奉していた参議大隈重信が、高宮に宿をとった。以前より彦根城の天守から琵琶湖を望んでみたいと思っていた大隈は、その希望を叶えるべく彦根城に向かった。ところが「彦根藩士三百年間の魂の入れ物」であった城が破却されようとしていることを知り、「如何にも気の毒に堪えぬ」として、早速、籠手田安定県令を呼び寄せて事情を問いただしたうえで、彦根城を特旨によって永久に保存することが決まったという。

『新修彦根市史 第三巻 通史編 近代』

当時、軍部は「廃城令」の下、各地の城郭を解体して資材を売却し、軍費に充てる方針を冷徹に進めていた。その軍事的・政治的整合性を欠いた命令を、一国の元首が通りすがりに唐突に下したのだ。あまりにドラマチックである。
彦根城博物館の研究紀要第35号の『資料紹介 明治11年「彦根城郭保存」関係資料について』という渡辺恒一学芸員による論考は、天皇が彦根に到着する以前から、保存を望む「地元の熱意」が周到な準備として積み上げられていたという事実を明らかにした。
明治天皇の「勅命」は、彦根の人々が書き上げた壮大な脚本のクライマックスではなかったのか……。

民間保存運動の実態新出史料が語るもの

1.「彦根城天守閣御払い下げにつき願書案」の発見

この願書案は、滋賀県犬上郡第一区から十区の区長が連名で滋賀県令に宛てたものと考えられ、その内容は極めて示唆に富んでいる。
願書では、明治4年の廃藩以降、旧城下町が経済的に衰え、人心がまとまっていない状況を打開するために、天守の存在が必要不可欠であるとしている。そして、陸軍省が所管していた天守や櫓などを入札により売り払うことが既に公表されていたことを踏まえ、低価で区長らに払い下げてほしいと願い出ている。さらに、県から陸軍省に照会してくれるよう依頼しているのである。
注目すべきは、この願書における天守保存の理由である。単なる文化財としての価値ではなく、「住民の心を一つにする」象徴としての機能が強調されている。廃藩置県による急激な社会変動の中で、地域共同体のアイデンティティの核として、天守が位置づけられているのだ。

2. 井伊家家職らの戦略的動き

さらに重要なのが、彦根藩大久保家文書に含まれる「大久保章男宛中居清人書簡」である。旧藩士で当時井伊家の家職であった中居清人から同職の大久保章男に送られたこの書簡からは、区長たちと中居らが大津の陸軍歩兵第九連隊に働きかけ、天守の取得方法について相談し、情報を得ていたことが明らかになる。
これらの史料が示すのは、天皇巡幸以前から、区長と井伊家の家職らが滋賀県や陸軍に働きかけ、天守を保存しようとする政治的な動きがあったという事実である。『明治天皇紀』に記された保存の経緯は、こうした地域の運動の存在を完全に欠落させており、あたかも大隈の訪問という出来事によって天守が救われたかのような印象を与えている。
しかし実際には、地域住民と旧藩士らの粘り強い保存運動があり、その動向に滋賀県や陸軍省が応じる形で、最終的に天皇による保存の意向表明が実現したと考えるべきであろう。

天皇遙拝の空間装置城に組み込まれた独自の精神構造

彦根城の保存を考える上で見落とせないのが、この城が持つ特殊な政治的・象徴的意味である。井伊家は江戸時代を通じて徳川家の譜代大名筆頭として、京都守護などの重責を担ってきた。彦根城は単なる地方の城郭ではなく、京都と江戸を結ぶ戦略的要衝に位置し、朝廷と幕府の接点を象徴する存在だったのではないだろうか。
興味深いことに、彦根城天守から京都(禁裏)の方角に向けて遙拝が行われていた。この「遙拝」という行為は、天守という場で、彦根藩井伊家当主が入部儀礼の一環として、彦根城天守「御上段」まで上がり、京都の天子と江戸の将軍に対し遙拝を行っていた事実があり、また「側役日記」(彦根藩井伊家文書)に12代当主井伊直亮による遙拝の様子が記されている。
明治政府にとって、このような象徴性を持つ城を保存することは、単なる文化財保護を超えた政治的意味を持っていたのではないだろうか。
すなわち、彦根城の保存は、明治新政府が天皇を中心とする新たな国家体制を構築する過程において、旧体制の正統な継承者であることを示すシンボルとして機能した可能性がある。朝廷との歴史的つながりを持つ井伊家の居城を保護することで、明治政府は自らの正統性を強化できると考えたのではないだろうか。
この保存運動において、区長たちが用いた保存の「口実」は、極めて独創的かつ強力であった。彼らは、地域共同体のアイデンティティの核として、彦根城天守を「天皇(皇都)を遙拝する場所」として定義し直したのである。この「天皇(皇都)を遙拝する」という行為を城郭構造に組み込むことが許されたのは、京都守護を務めた井伊家ならではの特権であったと考えられる。
区長たちの「願書案」には、この井伊家の精神的特権を巧妙に引用し、「天守を残せば、国民がここから天皇を仰ぎ見ることができ、愛国心の高揚に資する」と記されている。 「城を保存することは、殿様のためではなく、国家(天皇)への忠誠を誓う場を守ることである」。このレトリックは、廃城を推し進める明治政府の官僚や軍部に対し、反論を封じ込める絶大な説得力を持ったに違いない。井伊家の美意識が、市民の知恵によって「近代国家の論理」へと昇華された瞬間であった。

勅令神話は「偶然」か「演出」か

明治天皇の巡幸は、全国各地で地域に様々な恩恵を与える政治的イベントとして位置づけられていた。天皇を中核とする明治政府への求心性を高めるという明確な意図があった。そのような文脈の中で、彦根城保存という「恩恵」が地域に与えられたとすれば、それは決して偶発的な出来事ではなく、周到に準備された政治的演出であった可能性が高い。
県令籠手田安定は、明治維新の急激な西洋化の中で、日本の伝統文化の価値を見直し、保存・発展させようとする「国粋保存」思想の熱心な信奉者として知られている。籠手田は、地域住民の保存運動の情報を把握し、それを天皇巡幸という絶好の機会に結びつけるコーディネーターの役割を果たしたのではないか。
明治天皇は10月11日朝に木之本を発ち、北陸街道を南下、鳥居本で中山道に入り、高宮に到着し円照寺に宿泊した。翌12日に高宮を発ち、草津に向かったが、滋賀県令の申請により、参議大隈重信を彦根町に遣わし、同地の製糸場と伝習学校を視察させた。13日には大津に入り、15日午前まで同所に滞在した。
大隈の「以前より彦根城の天守から琵琶湖を望んでみたいと思っていた」という動機も、事前の情報共有があったからこそ成立する設定ではなかったのか……。

世界遺産登録に向けた新たな視座

2028年の世界遺産登録を目指す今、この複雑な保存の歴史こそが、彦根城の価値を一層際立たせるのではないだろうか。
「勅命神話」は美しい。しかし、その背後にある地域の人々の献身、政治家や行政官の戦略、そして時代の複雑な力学を理解することで、彦根城の価値はより深く、より普遍的なものとなる。世界遺産とは、単なる過去の遺物ではなく、人々がどのようにそれを守り、未来へ伝えようとしたかという、継承の物語でもある。このあまりにも美しい「メイクドラマ」を、今度は私たちが「世界遺産」という最高の形で完結させなければならない。


付記

本稿は、彦根城博物館学芸員・渡辺恒一氏による『資料紹介 明治十一年「彦根城郭保存」関係資料について』(『彦根城博物館研究紀要』第35号、2025年)に基づき、同氏へのインタビューを踏まえて構成した。また、この研究成果に触発され、編集部独自の視点から、井伊家の精神構造や明治政府の政治的意図について、大胆な考察を加えた。実証と仮説が混在する部分もあるが、彦根城の世界遺産登録という未来に向けた議論の一助となれば幸いである。
渡辺氏の研究は、150年近く埋もれていた史料に光を当て、「勅命神話」の背後に隠された民間の保存運動を明らかにした画期的なものである。深甚なる敬意と感謝を表したい。

(編集部)


参考文献

  • 渡辺恒一『資料紹介 明治11年「彦根城郭保存」関係資料について』(『彦根城博物館研究紀要』第35号、2025年)
  • 『新修彦根市史 第三巻 通史編 近代』ほか