はじめに

前回までは、明智光秀の領国経営のSDGs分析を2回にわたってお話してきました。明智光秀の次に取り上げるべき武将は、やはり織田信長ではないでしょうか。ご存じの通り、信長と光秀は固い主従関係で結ばれていたはずでしたが、本能寺の変で光秀のまさかの謀反によって信長は命を落とすというドラマチックな結末を迎えました。

信長は、既存の戦国大名とは一線を画す領国経営を展開して富国強兵を実現し、一気に支配領域を拡大していきました。支配領域を拡大すると、インフラストラクチャー(経済基盤)を整備して物流ネットワークを確立しました。そのことによって、更なる経済活性化を実現し天下統一が目に見えるところまでやってきました。一方、組織運営に関しては、実力主義で人材を登用する一方で徹底的な成果主義を実践していきました。家臣にとっては、結果を出せばやりがいが得られるが、結果を出し続けなければならないというプレッシャーに常にさらされることになりました。このような家臣に対する人材マネジメントの在り方が、信長の命運を決してしまうことになりました。

SDGsとは?

SDGs(Sustainable Development Goals)とは「持続可能な開発目標」と訳されているもので、第70回国連総会(2015年9月25日に開催)で採択された「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ(戦略や行動計画という意味)」という文書の中で登場します。具体的には、以下の17の目標があります。

功績1 領国経営の新ビジネスモデルの構築

 

戦国武将の典型的な領国経営と言えば、農民から年貢を納めさせて米を基軸に経済活動を展開するというものです。米をベースとした経済活動を維持発展させるためには、土地の確保と農業の発展が領国経営のポイントとなります。多くの戦国武将は、本拠地は変えずに領地を拡張する戦略で農民を兵士として動員して他国へ侵攻し、獲得した領地は家臣へ報酬として与えるという領国経営の方針を取っていました。

それに対して織田信長は、従来の戦国武将とは全く異なる領国経営を展開します。その特徴が顕著に表れているのが、居城を転々と変えているということです。信長は、勝幡城→那古野城→清州城→小牧山城→岐阜城→安土城というように次々と居城を変えていきました。なぜ、信長が居城を変えていったのかと言うと、より条件の良い所に居城を構えて城下町を整備し、楽市楽座に代表される経済活動を振興させる政策に基づいてヒト・モノ・カネ・情報の往来を奨励して領国を活性化させることが狙いだったのです。また、経済力強化に伴って兵農分離による強力な戦闘集団の形成をすることができ、馬廻衆(信長親衛隊)の組織化を実現しました。言うなれば、農業ではなく商業に重きを置いた政策を実行して、他の戦国大名に対して競争優位を確立していきました。つまり、信長の領国経営のモデルは、経済活動の活性化→財力の強化→富国強兵策の実現→領国の拡大という流れをつくりだしていくものだったのです。

ちなみに、信長の領国経営の原点は、守護大名の斯波氏の守護代の織田氏の庶流という出身であった父の織田信秀が交易利権(伊勢湾舟運に従事する津島湊の商人の経済力)によって領国を拡大していったことをそばで見て学習してきたことにあるでしょう。守護大名の出身ではないゆえに領地を守護するという発想よりも、領地を経済発展させて富国強兵を実現して勢力を拡大させていくという発想を有していたと思われます。

功績2 インフラ整備で経済活動活性化 

織田信長は、ライバルの戦国大名とは異なる交易を活性化させる領国経営を展開してききました。ただ、経済活動を活性化させるためには、城下町だけが発展するだけでは意味がありません。ヒト・モノ・カネ・情報を活性化するためには、それらの往来を支えるインフラ(経済基盤)を整備しなければなりません。

そこで信長は、街道を整備して物流の活性化を目指しました。街道の整備に関しては、軍用道路としての機能も果たしました。もちろん、街道を整備することは他国から侵略されるリスクもあるのですが、富国強兵策によって実現された強力な軍事組織を有しているので侵略リスクよりも迅速な軍事行動を展開するメリットの方が大きいというわけです。

街道だけではなく、都への物流の要であった琵琶湖においても、拠点となる城を設けて水運による物流のネットワークを構築しました。このようにして信長は、インフラを整備して統治する領国間の物流ネットワークを整備して、ライバル戦国大名を凌駕する経済力と軍事力を獲得していくことになりました。

功績3 実力主義の人材登用と徹底的な成果主義 

織田家の家臣には、羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益といったように今で言うところの中途採用組がいました。信長は、中途採用組であってもその実力を認めれば、どんどん取り立てていきました。人材の登用に関して信長は、実力主義を重んじ、実績をあげた家臣にはどんどんチャンスを与え、権限移譲もしていきました。家臣同士にとっては、成果を出せばそれ相応の評価が得られるのでやりがいもあると思われます。

ただし、信長の場合は、ストレッチをかけた達成目標をそれぞれの家臣に課して、成果があがらなければ長年仕えてきた家臣であっても解雇するという徹底的な成果主義を実施していました。成果を出し続ければ働きがいはあるかもしれませんが、成果が出せなくなった時の不安は大きなストレスとなってはねかえってきます。

つまり、信長の人材マネジメントは、ある面では働きがいを大いに刺激して成果に結びつけることができますが、相当なプレッシャーをかけ続けられてストレスがかかるという負の面も存在する、言わば諸刃の剣の経営方針なのです。ゆえに、このプレッシャーに耐えられなかった家臣によって度々謀反が起こりました。その最悪のケースが、本能寺の変と言えるでしょう。


参考文献
  • 藤本正行(2003)『信長の戦争-『信長公記』に見る戦国軍事学-』講談社学術文庫
  • 池上裕子(2011)『織田信長』吉川弘文館
  • 神田千里(2014)『織田信長』ちくま新書
  • 金子 拓(2014)『織田信長〈天下人〉の実像』講談社現代新書
  • 松下 浩(2014)『織田信長その虚像と実像』サンライズ出版
  • 日本史資料研究会[編](2014)『信長研究の最前線-ここまでわかった「革新者」の実像-』洋泉社
  • 小和田哲男(2003)『集中講義 織田信長』新潮文庫
  • 谷口克広(2011)『信長・秀吉と家臣たち』Gakken
  • 谷口克広(2013)『信長の政略-信長は中世をどこまで破壊したか-』Gakken