はじめに
戦国時代と言えば、弱肉強食、戦に勝利したものは生き残り破れた者は姿を消します。ゆえに、存続するためには勝ち続けなければなりません。ただし、勝ち方にもいろいろあります。リーダーとなって部下を従えて勝ち続けることだけではなく、勝ち馬に乗るという勝ち方もあります。今回取り上げる京極高次は、勝ち馬に乗って生き残った典型例でしょう。高次は勝ち馬に乗るための判断力もあったと思います。それにもまして、権力者が由緒ある家柄の高次を取り込むことがメリットになると考えていたので、高次は勝ち馬に乗るだけではなくその後うまく取り立ててもらっていきました。その背景にあるのは、先祖代々が築いた目に見えない力です。ゆえに、権力者からバックアップを得て戦国を生き抜いたのです。
SDGsとは?
SDGs(Sustainable Development Goals)とは「持続可能な開発目標」と訳されているもので、第70回国連総会(2015年9月25日に開催)で採択された「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ(戦略や行動計画という意味)」という文書の中で登場します。具体的には、以下の17の目標があります。
功績 ソフトパワーで乱世を生き抜く
SDGsの観点から京極高次の功績を見ていくと、高次自身の功績というよりも京極氏という家柄ゆえに持続的に発展できたと思われます。京極氏は近江源氏の佐々木氏をルーツに持つ家系で、室町幕府の重職を担う四職家の1つとして栄華を極めてきました。ところが、室町時代の末期になると京極氏は、歴代当主の意思決定のまずさや内紛があり衰退してしまいました。
京極高次は、京極氏再興のため執念を燃やします。人質に出されていた織田信長の配下で活躍しますが、本能寺の変の後に明智光秀に味方して失敗。その後、頼っていた柴田勝家も賤ケ岳の戦いに敗れて、高次は路頭に迷います。まずい意思決定を続けますが、豊臣秀吉の側室となっていた龍子(生年不明で姉か妹か分からず)のおかげで赦免され、近江国高島郡大溝城を与えられました。そこから高次は、秀吉の配下として数々の功績を上げて最終的には大津6万石を得るに至りました。
関ヶ原の戦いで京極高次は、東軍、西軍、いずれに参陣すべきか重大な意思決定を迫られました。最終的に東軍について、大津城で籠城戦を展開しました。だが、奮戦虚しく西軍に大津城を開城してしまい、高次は高野山に入山しました。高次の命運も尽きたかと思われましたが、徳川家康に籠城戦の功績が認められて最終的に若狭国小浜9万2千石余(近江高島郡7千石を含む)を与えられ一国一城の主となりました。
京極高次は適切な意思決定を下せず命を落としていてもおかしくなかったのですが、生き残ることができました。なぜ生き残ることができたのでしょうか。それは京極氏という家格にあると考えられます。家格というのは、今で言うならばブランド力のようなものです。家格のある京極氏を配下に持てば、京極氏を配下に持った武将の格も上がるということになるのです。それは、権力者や富豪が高級ブランドを求める心理に相通じるところがあるでしょう。ゆえに京極氏は、滅ぼされることなく続いていくことになったと考えられます。
京極氏のような由緒ある家柄が持つ伝統に裏付けられた影響力は、軍事や経済力を通じて発揮する影響力ではなく文化や価値観で人を引き付ける影響力であるソフトパワーだと言えるでしょう。ゆえに高次は、歴代の京極氏当主によって築き上げられてきたソフトパワーによって織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という時の権力者とのパートナーシップを構築したのです。そして、彼らの支援を得て高次は京極家の再興を果たしたのです。
ソフトパワーをうまく活用すれば様々な有力者と良好なパートナーシップを構築することができ、そういった人たちをうまく巻き込んでSDGsを推進していくことが可能だということが京極高次の歩みを通じて理解できると思います。伝統文化は守り続けるだけではなく、それらをソフトパワーとして活用して様々な人々を持続的発展に巻き込んでいくことが重要です。
- 参考文献
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- 伊吹町教育委員会[編](2003)『京極氏の城・まち・寺-北近江戦国史-』サンライズ出版
- 京都新聞社[編](2017)『京近江の武将群像』サンライズ出版
- 西村清雄(2015)『佐々木京極氏と清瀧寺』サンライズ出版