はじめに

現在の彦根周辺を拠点とした土豪(土着の豪族)にとっての戦国時代は、いかにして領地を守り生き抜いていくかということが重要な時代でした。独立して生き抜いていければそれに越したことはないのですが、多くの土豪は有力大名の庇護を受けないことには存続できませんでした。とりわけ近江は、多くの勢力が激しい覇権争いを繰り広げる土地でした。ゆえに、彦根の土豪は一族の存亡をかけて、ある時には六角氏、またある時は浅井氏、織田氏と主君を乗り換えました。ひとたび権力者とのパートナーシップを構築しても何とか生き残れる場合もあれば、権力者の命で参戦して命を落としたり、主君と共倒れになりました。持続的に発展する目標を謳っているSDGsの観点から言えば、その実現は土豪にとって至難の業でした。

SDGsとは?

SDGs(Sustainable Development Goals)とは「持続可能な開発目標」と訳されているもので、第70回国連総会(2015年9月25日に開催)で採択された「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ(戦略や行動計画という意味)」という文書の中で登場します。具体的には、以下の17の目標があります。

功績 有力戦国武将の庇護を受けて領地の維持発展を目指す

戦国時代の近江の土豪は、江北の京極氏と江南の六角氏の覇権争いに始まり、後に京極氏に代わって台頭した浅井氏と六角氏の争い、そして、織田信長の近江侵攻といったように常に覇権争いの渦中にありました。戦国時代、あらゆるところで覇権争いが起きていましたが、とりわけ近江においては熾烈な覇権争いが展開されてきました。なぜなら、近江は、日本最大の湖である琵琶湖の豊富な水源と平地が多いゆえに石高が高く、水運を活かした物流の拠点であり、都にも近いので近江の覇権を握ることは絶大な権力を有することになるからです。
このような状況であるので近江の土豪は、権力者の庇護を受けることなしには領地を持続的に発展させることは不可能でした。権力者の庇護を受けるといっても、庇護する権力者がいつまでも権力を持ち続けるわけではないというのが戦国時代です。ある権力者の庇護を受けて領地が安堵されたとしても、その権力者が別の権力者に取って代わられたら領地の安堵どころか滅ぼされてしまうこともあります。それゆえに、近江の土豪にとっては、権力者の見極め、見切り、従属の仕方など頭を悩ます決断に迫られていたのです。今回、取り上げられる山崎氏・高野瀬氏・高宮氏も生き残りをかけての決断を行い、山崎氏は生き残り高野瀬氏と高宮氏は滅んでしまいました。
山崎氏は六角氏の庇護を受けていましたが、六角氏の内紛であった観音寺騒動を機に六角氏を離れました。その後、織田信長の軍門に下りました。居城の山崎山城は信長が整備した岐阜から安土そして京都へ登る道として「下街道」沿いにあるゆえに、信長のインフラ政策の一環として当時の最新技術を導入した石造りの城へ改修されました。信長亡き後は豊臣秀吉そして徳川家康に仕えました。ただ山崎氏は、所領の近江を離れ、全国各地への転封を命じられて存続しました。山崎氏の場合は、内紛をきっかけに六角氏から信長の庇護を受ける決断をし、その後の主君となる秀吉や徳川幕府に従属することで一族は生き残りましたが、父祖伝来の地を離れることになりました。
高野瀬氏も山崎氏と同様に六角氏の庇護を受けていました。高野瀬氏の場合は肥田城主として長らく六角氏の配下にあったのですが、当主の高野瀬秀隆は浅井長政に通じるようになりました。浅井氏への寝返りに対する「肥田城への水攻め」と呼ばれた六角氏の激しい報復攻撃も凌ぎました。その翌年の「野良田表の合戦」においては六角氏を返り討ちにしました。そうして、高野瀬氏は浅井氏の配下として存続することができました。やがて、織田信長によって浅井氏は滅ぼされ、高野瀬氏は信長の家臣柴田勝家に仕えることで生き残りました。しかしながら、越前の一揆討伐に従軍するも、越前の安居城で秀隆と息子の隆景は共に自害に追い込まれました。その後、肥田城は蜂谷氏、長谷川氏と主を変えるも廃城となり、江戸時代においては城の主要部が開墾されて新田となりました。高野瀬氏の場合は、庇護を受ける主君を変えながら存続してきましたが、主君の命による戦で命を落として滅亡しました。また、領地も主を変えながらも廃城となってしまいました。
高宮氏も山崎氏や高野瀬氏と同様に六角氏の配下でしたが、当時対立していた京極氏の家臣となって対立するようになりました。京極氏が零落して代わりに台頭してきた浅井氏の配下となりました。六角氏からの攻撃は続きながらも、当主の高宮三河守頼勝は浅井氏の援軍もあって居城の高宮城を死守してきました。しかしながら、織田信長の近江侵攻で状況が一変します。浅井長政は、信長との同盟を反故にして「姉川の合戦」で激突し、高見社史も浅井氏側で参戦します。高宮氏は、「姉川の合戦」に敗れた後も信長に抵抗する道を選択しました。高宮氏は同じく信長と対立していた石山本願寺に帰依しており、石山本願寺の一員として戦います。だがこの戦いにも敗れ、信長の家臣である丹羽長秀によって謀殺されました。高宮氏の場合は六角氏から京極氏そして浅井氏と主君を変えてきましが、侵攻してきた信長に徹底的に抵抗することで滅亡し、居城の高宮城も炎上してしまいました。
近江の土豪をSDGs観点から見ると、それぞれの所領を持続的に発展させることは至難の業であるということがそれぞれの事例を見れば分かります。山崎氏の場合は権力者とパートナーシップを構築して所領も繁栄しましたが、転封を命じられ一族は生き残りましたが父祖伝来の地を離れることにありました。高野瀬氏の場合も庇護を受ける権力者をうまく変えながらパートナーシップを構築しましたが、最後に庇護を受けることになった織田信長の命令による戦闘で命を落として滅んでしまうという本意ならぬ結末となってしまいました。高宮氏の場合は庇護を受けていた浅井氏に従属しつづけ、浅井氏の敵となった信長に徹底的に抵抗するという道を選びました。権力者とのパートナーシップという観点から見れば、高宮氏は最適な意思決定をしたわけではありませんでした。SDGsの観点から見れば評価されないかもしれませんが、浅井氏滅亡の後も石山本願寺と共に信長に抵抗するという行動は武士としての本懐を遂げたものではないでしょうか。


参考文献
および資料
  • 彦根商工会議所(2016)『彦根の城と城館-『私の町の戦国』解説シート-』彦根商工会議所
  • 宮島敬一(1996)『戦国期社会の形成と展開-浅井・六角氏と地域社会-』吉川弘文館
  • 太田浩司(2011)『浅井長政と姉川合戦-その繁栄と滅亡への軌跡-』サンライズ出版
  • 小和田哲男(2005)『近江浅井氏の研究』清文社