公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館提供

名著『マネジメント』の著者ピーター・ドラッカーは日本に長寿企業が数多いことに興味をもち、渋沢栄一の思想や業績に大きな感銘を受けたといわれている。
明治政府が日本の近代化を推し進め国の基礎を築いていくなかで、渋沢は、事業理念の範を『論語』に求め、日本の資本主義を設計し実業界を育てていった。
「事業が正業であるならば公益と私益とは一致し、商人を国家を裕福にする実業家と位置づけ、企業の目的が利潤の追求にあるとしても、その根底には道徳が必要であり、国ないしは人類全体の繁栄に対して責任を持たなければならない」。渋沢は生涯、「道徳経済合一」(『論語と算盤』)、利潤と道徳の調和を説き、国を富ませ、人々を幸せにすることを考え、実践した人物である。
渋沢は日本の近代産業のありとあらゆる分野に関わっている。第一国立銀行(現在のみずほ銀行に繋がる)、抄紙会社(後の王子製紙)、東京海上保険会社(後の東京海上火災)、東京瓦斯(後の東京ガス)、東京電燈(後の東京電力)、帝国ホテル、札幌麦酒会社(後のサッポロビール)、日本鉄道会社(後のJR)、東京商法会議所(後の日本商工会議所)、東京株式取引所(後の東京証券取引所)などを設立。東京府養育院、結核予防協会、聖路加国際病院などの社会福祉事業や医療事業のほか、商法講習所(後の一橋大学)、日本女子大学の設立など非営利の社会事業にも力を注いだ。その数は生涯に約500の企業、約600の教育機関・公共事業に及んだ。  

勤王から幕臣へ

渋沢は天保11年(1840)2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島(ちあらいじま)の農家に生まれた。家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝い、6歳のとき父に学問の手解きを受けた。7歳で本格的に『論語』を学んだのは従兄の尾高惇忠(おだかあつただ)からだった(尾高は富岡製糸場初代場長となる人物)。
嘉永6年(1853)ペリー来航、安政5年(1858)日米修好通商条約締結。尊皇論・攘夷論が世の中を席巻する文久3年(1863)渋沢22歳のとき、惇忠らと攘夷計画を密議していたが、惇忠の弟長七郎の説得により決起寸前で中止することになる。事が露見したわけではなかったが、故郷に残るのは危険と判断し、一橋家の用人平岡円四郎を頼って京都へ下り、元治元年(1864)、平岡の推薦で一橋慶喜に仕えた。翌年、慶喜は征夷大将軍となり、 渋沢は幕府を内側から変えようと幕臣となった。
慶応3年(1867)27歳のとき、15代将軍徳川慶喜の実弟・昭武の随行員としてパリ万国博覧会を訪れ、約2年間、ヨーロッパ諸国で見聞を広める。渋沢はヨーロッパの繁栄を築き、支えているのは、資本主義を基にした経済力だと理解した。更に、「士農工商」の身分制度のある日本とは違い、ヨーロッパでは商人と軍人が対等に接し、国王が自国の製品を売り込む姿を見て、経済力の向上には商人の地位向上が必須だと肌で感じていた。

幕臣から政府高官、そして実業界へ

フランスから帰国した渋沢は、明治2年(1869)、「静岡商法会所」を設立する(後に「常平倉」)。商法会所とは、商社と銀行を合わせたような組織で、日本の会社組織の始まりといわれる。明治政府から藩への多額の貸付金に着目し、これを元手に流通を盛んにし、商売の資金融資、地域振興に役立てようというものだった。同年、渋沢は明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わり、明治3年(1870)には、官営富岡製糸場設置主任となる。
しかし明治6年(1873)、渋沢33歳。財政改革の主張が容れられず井上馨らとともに官を辞した後、実業界に身を投じ、第一国立銀行を足がかりに、株式会社組織による日本の未来に必要な企業の創設・育成に傾注していく。

財閥をつくらなかった渋沢栄一

渋沢にとって企業の設立・運営は、近代日本育成のための手段だった。事業の立ち上げに当たっては、発起人名簿に名を連ね、自ら開業資金の一部を投資した。その結果、会社が無事設立され、経営が順調に進むのを見定めると、多くの場合、持ち株を売却し、その資金を次の新しい企業の支援に充当していった。岩崎弥太郎とは真逆の発想で、国の近代化を推進したのである。
岩崎は、「国家社会があっての企業」という渋沢と共通の哲学をもつ偉大な経営者である。財界人としての活動では協力し合うことの多い二人だったが、多くの人の資本と知恵を結集するのが近代経営と説く渋沢と、権限とリスクは一人に集中すべきと信じて疑わない岩崎は全く異なる信念を持っていた。
それぞれの信念に基づき事業を展開してきた二人が、ついに正面から角を突き合わせる。共同運輸会社と郵便汽船三菱会社の戦いがそれだ。渋沢は、単一資本にして社長独裁の岩崎三菱が、政府の助成を享受し日本の海運を意のままにしていることが許せず、井上馨らに働きかけ、共同運輸を設立、壮絶なビジネス戦争が勃発した。結局、共倒れ必至となり、両社合併して日本郵船となった。
三井家や岩崎家、住友家のように財閥をつくらなかった事実が、国を富ませ人々を幸せにするという渋沢の一片氷心(曇りのない澄みきった心)を現している。

関東大震災と渋沢栄一

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大正12年(1923)9月1日、マグニチュード9.2の大地震が関東地方を襲った。直後に発生した火災と津波などにより約10万人の犠牲者を出し、首都圏は壊滅的な打撃を受けた。
83歳の渋沢は「こういう時には、いささかなりとも働いてこそ、生きている申し訳が立つようなものだ」と被災民とともに東京にとどまり、大震災がもたらした難局に敢然と立ち向かうことを宣言する。豊富な経験を生かし、「民」の力を結集し、震災復興に挑戦したのである。
渋沢の頭のなかには、瞬時に、被災者の救済と民心の安静のために何をすべきか、首都東京をどのような都市に復興させるか、そのとき民間人は何をするべきか、さらには復興の精神的支柱をどこにおくか、などいくつかの課題が浮かんでいた。一刻を争う緊急の課題から、中長期の復興計画まで視野に入っていた。
渋沢は、救済事業資金調達のため、実業家有志と相談し、組織づくりを始める。9月9日、無傷のまま残った東京商業会議所(現在の東京商工会議所)に集まった約40名の実業家に対し、「民」の立場から救護と復興に関する組織を立ち上げることを提案。9月11日には大震災善後会が結成された。事務局は東京商業会議所に設置され、民間による救援活動の拠点となった。更に渋沢は、国際的な人脈(米国実業家)を活用し、義援金を集め、活動資金とした。
地震発生から8日後、渋沢は新聞のインタビューで、「天譴論」(てんけんろん)を述べている。「大東京の再造についてはこれは極めて慎重にすべきで、思ふに今回の大しん害は天譴だとも思はれる。明治維新以来帝国の文化はしんしんとして進んだが、その源泉地は東京横浜であつた。それが全潰したのである。しかしこの文化は果して道理にかなひ、天道にかなつた文化であつたらうか。近来の政治は如何、また経済界は私利私欲を目的とする傾向はなかつたか。余は或意味に於て天譴として畏縮するものである」。急激な近代化と第一次世界大戦中に発生したバブル景気の影響で、仁義道徳が廃れたと感じた渋沢は、政争に明け暮れる政治家や、公益を忘れ私利私欲に走る実業家を強く戒めている。  

渋沢栄一・ SDGs

現代、気候変動、自然災害、感染症、紛争など、地球規模の課題が経済・環境・社会に重大な影響を及ぼしている。また、急速な都市化や超高齢化問題などの課題が山積している。これらの課題の解決に向けて、地球規模での取り組みの必要性が強く認識されてきた。
SDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)は日本を含めた先進国と開発途上国(国連加盟の193ヶ国)が共に取り組むべき国際社会全体の普遍的な目標である。
SDGsを達成するためには、経済界や民間財団が「民」の力を結集して、次々とヴィジョンやアイデアを提案し、政府を後押ししながら、自らが新しい日本を築くという強い責任感を持って行動することが不可欠である。そして、いかに資金を調達し循環させるのかが要となる。
渋沢は、国を富ませ、人々を幸せにすることを目標に生きた。持続可能な社会を実現するために自らの思想を実践した人物である。「道徳経済合一」、「フィランソロピー(慈善活動)」、「メセナ(企業の文化支援活動)」、「リーダーシップ」、「高齢社会の模範」など、渋沢の志とともに学ぶところは大きい。そして、「天譴論」は、今まさにこの時代へのメッセージでもある。
『渋沢栄一訓言集』に「逆境に処しては断じて行え。決して惑うてはならない」とある。
断じて行う「とき」を見誤ってはならない。


参考

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1927年、アメリカから、日米の親善を願って約12,000体の可愛い人形が、太平洋を越えて日本に贈られた。排日移民問題が過熱する日本とアメリカの児童たちの間に、友情・交流を結ぶことが目的だった。この人形交流を両国に呼びかけたのが、アメリカの宣教師シドニー・ルイス・ギューリック、そして日本側で人形の受け入れに尽力したのは、渋沢栄一だった。渋沢自身も養育院などで、児童教育に力を入れていたことから、シドニー・ルイス・ギューリックの提案した「doll project(人形計画)」に共感を覚え、「日本国際児童親善会」を設立、外務省や文部省にも協力を依頼し計画を実行した。児童とともに、「青い目の人形」を連れて各地をまわり、大きな反響を呼んだ。しかし、1941年、戦争により日米の関係は悪化し、日本では多くの人形が処分され、全国で現存が確認されている人形は約300体だけである。