彦根ヒストリア講座 2021 始まる!!

彦根商工会議所が主催する彦根プレミアム塾のひとつ「彦根ヒストリア講座 2021」のプログラムが発表された。戦国編と近代編、全7講の予定。「戦国編」では佐和山城主石田三成に、「近代編」では明治維新後の彦根藩にスポットをあてた歴史クエストになっている。
歴史観光・歴史講座の愉しさや面白さは、事前学習のレベルで大きく違ってくる。「戦国編・石田三成が遺したもの」の開講を前に、彦根城の周りに点在する石田三成記念物を巡る。

彦根プレミア塾 2021 彦根ヒストリア講座

彦根城鐘の丸より佐和山を望む

大坂の陣供養碑と一本松

大洞弁財天の近く、JRの線路沿いに大坂の陣で亡くなった人々の供養碑がある。元禄12年(1699)、彦根藩第4代井伊直興の建立である。大坂の陣は関ヶ原合戦後の二重公儀体制()の破綻により、江戸幕府が豊臣宗家を滅ぼした戦いである。
冬の陣は慶長19年(1614)、夏の陣は慶長20年(1615)。供養碑は、大坂夏の陣から84年後、関ヶ原合戦から99年後に建立されたことになる。何故だろう……。

*二重公儀体制とは、基本的に豊臣・徳川の共存共栄を図る構想であり、東西分治のもと両勢力の棲み分けによる共存戦略であった。(『関ヶ原合戦と大坂の陣』笠谷和比古著・吉川弘文館)。

大坂の陣供養碑

実はこの供養碑は、「一本松」と呼ばれた塚の上に建っている。
話は佐和山籠城戦、慶長5年9月17日に遡る。新修彦根市史第五巻には、結城秀康が佐和山城の様子を伊達政宗に知らせた手紙(慶長5年9月28日)が載っている。『態使札以申入候、去十七日ニさを山(佐和山)へ山中より取かけ、則乗取申候、水之手を田中兵部(吉政)取、せめおとし申候、内府(徳川家康)ものニ而ハ、石川左右衛門尉太夫手柄仕候、石田杢父子・治部父、同妻子ちかい(自害)仕候、てんしゆ(天守)ニ日(火)をかけ申候、上方之儀、弥々御心安可被思召候、(中略)』。包囲軍の一方的な戦いだったことがわかる。
ただこの時、老兵福島次郎作の武勇が今に伝わる。佐和山城郭研究代表の田附清子さんが書かれた『佐和山こぼれ話』に「福島次郎作、我に二心無し」という一文がある。

「福島次郎作、我に二心無し」

美濃表に出立した三成が佐和山城の留守居役として置いていった多くは、年老いた者がほとんどだった。これは三成がそうしたというより、留守居の彼らが、若き精鋭は皆戦場へ連れて参られよと申し出たのだとか。福島次郎作、彼もまた老いた家中で、佐和山の留守居役だった。関ヶ原の合戦がわずか一日で結果を見ると、翌日には乗車が東山道を抜けて、この佐和山に攻めかけてきた。太鼓丸での内通、留守居役家老山田嘉十郎の敵前逃亡。精鋭を欠く佐和山留守居部隊の敗色は火を見るよりも明らかだった。その中で福島次郎作は果敢に弓を放った。自分の矢種が尽きると逃げた山田嘉十郎が残していった嘉十郎名入りの弓でもって射掛ける。一矢で二人、それも馬上の大将級の士を射落としたという。家康は、弓に書かれた嘉十郎の名を見て「この嘉十郎なる者、武功の者なり」と、彼に投降を求めた。ところが弓の射手は山田嘉十郎ではなく、福島次郎作その人。「嘉十郎はすでに城中より逃亡。この嘉十郎が弓を引いたのは拙者福島次郎作である」投降を進める家康の使いに向かって次郎作は「我に二心無し」と恫喝。いよいよ落城の時、次郎作は塩硝櫓に火をかけさせ、自らは今の大洞弁才天の経蔵辺りで自刃して果てたという。落城の後、百姓らがこの福島次郎作を弔うために塚を築き、その塚に常緑の松の木を植えた。後に「一本松」と呼ばれるようになり、大きな石塔が建てられた。この福島次郎作のことは申すに及ばず知れわたり、弓働きは立派だったと他の国ででも噂になったのだと言う。

大洞弁財天 経蔵

記憶を上書きする

井伊直興は、日光東照宮修造の惣奉行を務め、槻御殿(玄宮楽々園)造営や松原港、長曽根港も改修した当時の建設事業第一人者である。そして、直興自らが院主となり、彦根城の鬼門除けと領内の安泰を願うとともに、近江代々の古城主の霊を弔うために建立したのが大洞弁財天である。弁財天堂横の阿弥陀堂には、阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来の三尊が祭られ、彦根藩領内の古城主237人の法名・俗名の名札と、大坂の陣で討ち死にした家臣の法名・俗名の名札が奉納されている。
何故「一本松」に大坂の陣供養碑を建立する必要があったのか……。
関ヶ原から100年が過ぎても未だに石田三成に注がれる領民の信頼と福嶋次郎作の武勇の記憶を、彦根藩初代井伊直政の武勇と大坂夏の陣での彦根藩第二代直孝の著しい戦功に上書きしたかったのではないだろうか。
ちなみに直興は明暦2年(1656)江戸で生まれた。直孝の4男直時の嫡男である。祖父・直孝の遺言により直澄の養子となり、延宝4年(1676)、直澄没後城主となった。直政、直孝に告ぐ名君と評価され、幕末の大老・井伊直弼がもっとも尊敬し、手本としたのが直興であった。


参考
  • 『関ヶ原合戦と大坂の陣』(笠谷和比古著・吉川弘文館)
  • 『新修彦根市史』第一巻』通史編(彦根市史編集委員会)
  • 『新修彦根市史』第二巻』通史編(彦根市史編集委員会)
  • 『新修彦根市史』第五巻』資料編(彦根市史編集委員会)