前回、現在構想中の彦根城の世界的価値は、「江戸時代の日本の政治システムは世界的にユニークで、彦根城はその政治システムをあらわす証拠である」ということだと述べた。これは具体的にはどういうことか。江戸時代の政治システムは、どのようなところが世界的にユニークだと言えるのだろうか。

藩政の中心地だった表御殿跡(現在の彦根城博物館)

戦いのない時代

皆さんは、江戸時代にどのようなイメージをお持ちだろうか。一昔前の時代劇は、庶民を苦しめる悪代官とその一味を、主人公のサムライがバッタバッタと斬り倒す、勧善懲悪のチャンバラ活劇が多かった。そのイメージをお持ちの方は多いかもしれない。しかし、実際には、江戸時代の武士が刀を抜くことはほとんどなかった。当時の武士が刀で人を斬ることは、現代の警察官が銃を撃つことと同じくらいレアだったと言う研究者もいるくらいだ。実際の江戸時代は、もめごとが起こったとしても、武力によってではなく、法の裁きによって解決する時代だった。百姓たちが一揆を起こして幕府や藩に異議申し立てをすることはあったが、武力衝突に至ることは稀だった。260年間の江戸時代は、戦争はもちろん、武器を使うこと自体がほとんどなく、前の時代の日本や同時代の諸外国と比べて、明らかに平和な時代だったといえる。
しかし、「江戸時代は世界でも珍しい平和な時代だった」と言っても、これが世界遺産としての価値になるわけではない。これだけでは結果論に過ぎないからだ。そうではなく、「世界的にユニークな政治システムをつくり、その結果、200年以上の安定した時代を実現した」と言えなければならない。

表御殿跡(現在の彦根城博物館)

江戸時代の大名とは

江戸時代の政治システムは、全国を統治する将軍、将軍から与えられた領地を統治する大名、その領地で暮らす領民との関係によって成り立っていた。その中でも特徴的だったのが大名の存在である。
大名は、将軍から与えられた領地を治める地方領主だった。井伊家であれば、彦根藩領(現在の長浜市から東近江市くらいまで)の領主で、組織的な統治機構(藩)をつくって、自分の判断でその地域の政治をする権限を持っていた。大名は、その地域の領主だからこそ、領民と向き合い、その暮らしを守り、地域を発展させようとしたのである。 他方で、大名は、領主とはいっても、その土地に元々いた人ではない。将軍から領地を与えられ、家臣たちを引き連れて違う土地から異動して来た、いわば転勤族である。井伊家であれば、井伊谷(静岡県)から高崎(群馬県)を経て、江戸時代の初めにこの地へやって来た。将軍の命令で大名の領地を入れ替えたり没収したりすることができ、それを繰り返した結果、政治の仕組みは全国的に標準化された。戦国時代のように土地をめぐって領主どうしが争うことは、二度と起こらなくなった。
このように、江戸時代の大名は、自立した領主としての側面と、将軍を頂点とする全国システムの一員としての側面をあわせ持っていた。大名は、領主として領民と向き合い、彼らが農業や商工業に専念することを保証し、地域の発展を導いた。それと同時に、大名ごとにバラバラになることはなく、全国の統一が保たれ、その結果、200年以上にわたる日本全体の安定と発展を実現することができた。
同じ時代の中国は、試験で採用された官僚が中央から地方へ派遣されるシステムで、地方の領主は基本的に存在しなかった。ヨーロッパでは、地方に根付いた領主の力が強く、皇帝や国王が彼らをコントロールできないことが多かった。これらと比べると、全国的な統一と地方分権を絶妙に両立した江戸時代のシステムは、かなりユニークである。
江戸時代の歴史を眺めると、あたかも幕府が日本中の全てを決めているように見えるし、江戸の町の文化がこの時代の文化の全てのように思えてしまう。しかし、そうではない。江戸時代は、地方が主役の時代だった。そして、大名の政治の中心地であり、将軍、大名、領民を結びつける重要な役割を果たしたのが城なのである。

彦根城博物館能舞台より天秤櫓をのぞむ