長命寺の歴史
長命寺は、平安時代前期に寺院の基盤ができたと考えられている。その後、鎌倉時代に源頼朝が近江源氏秀義の追善のために、嫡子定綱(さだつな)に命じて本堂、釈迦堂・薬師堂・太子堂・護摩堂・宝塔・鐘楼・仁王門などを建立した。その後、佐々木六角氏の崇敬を受け、観音霊場として発展していったが、室町時代永正13年(1516)8月下旬、佐々木氏とその重臣伊庭氏の戦いに巻き込まれ、一山の堂舎は悉く兵火のため焼失。再興は焼失の翌年より始められ、永正14年には広く勧進し、6年をすぎた大永2年(1522)8月には本堂の再建に着手、2年後の大永4年(1524)本尊遷座された。本堂が再建されると、室町時代末期に三仏堂、慶長2年(1597)に三重塔、慶長11年に護摩堂、慶長13年に鐘楼が再建され、現在の長命寺の姿となった。
武内宿禰
武内宿禰(『古事記』では建内宿禰)は、第8代孝元天皇の皇子 比古布都押之信命(ひこふつおしのみこと)の孫(『古事記』では、御子)である。神功皇后と仲哀天皇の神託に同席して仲哀天皇への忠告を行い、仲哀天皇亡きのちは神功皇后の遠征や反乱平定などを片腕として手伝っている。
武内宿禰の活躍は政治面だけではない。神功皇后の神託のシーンでは「沙庭(さにわ)」を行っていた。「沙庭」とは、意味がわかりにくい“神の言葉”を解釈し、人が理解できるものへ“翻訳”して伝えることをいう。
また、武内宿禰は第12代景行、成務、仲哀、応神、仁徳の五代にわたる天皇に224年間にわたって仕えた。300歳を超える寿命であったと伝えられ、その寿命の長さでも語り継がれている。『古事記』では「世の長人(ながひと)」、『日本書紀』では「世の遠人(とおびと)」と表現され、長寿者として群を抜いた存在だったことがわかる。
長命寺の磐座(いわくら)信仰
磐座は、仏教が伝わる以前からある自然崇拝(アニミズム)で、日本人の信仰の原点ともいえる。広辞苑には、「【岩座・磐座】神の鎮座するところ」とある。神を招いて祀り、聖域とされたのである。
長命寺には三つの磐座がある。
六処権現影向石(ろくしょごんげんようこうせき)
本堂背後の斜面にある磐座。「六所権現影向石」という名は、「天地四方を照らす岩」という意味。
修多羅岩(すたらいわ)
武内宿禰を祀る護法権現社の背後にある磐座。修多羅とは、仏教用語で天地開闢、天下太平、子孫繁栄をいう。封じて当山開闢長寿大臣、武内宿禰大将軍の御神体とする。
飛来石(ひらいせき)
鐘楼の西方に総鎮守として太郎坊大権現が祀られている。普門坊という修行僧が長命寺を護持するために延暦寺に入り厳しい修行の末、神通力を身に付け空を飛び天候を操る太郎坊大天狗となった。その後、京都の愛宕山に移り住んだ太郎坊は長命寺を懐かしく思い、投げ飛ばした大岩が長命寺の境内に突き刺さった。「飛来石」として信仰の対象になっている。
『近江山河抄』(白洲正子著)の「沖つ島山」の章に「しょせん日本人の信仰は、自然を離れて成り立ちはしないのだ」、「琵琶湖の歴史は古いだけでなく、その自然と密接に結び合っている」と書かれている。磐座は、神が依りつき宿る岩石への信仰である。岩石の近くに社が建ち、仏教と習合していく。長命寺は寺の歴史ばかりでなく近江のえたいの知れない魅力を封じたような場所なのである。
長命寺の重要文化財
- 重要文化財建造物
本堂(室町)、三重塔(桃山)、鐘楼(桃山)、護摩堂(桃山)、三仏堂・護法権現社拝殿(室町から桃山) - 重要文化財絵画
絹本著色紅玻璃阿弥陀像(南北朝)、絹本著色勢至菩薩像(南宋)、絹本著色釈迦三尊像(室町)、絹本著色涅槃像(南北朝) - 重要文化財彫刻
木造千手観音立像(平安)、木造地蔵菩薩立像(鎌倉)、木造毘沙門天立像(平安)、木造聖観音立像(鎌倉)、木造十一面観音立像(平安) - 重要文化財工芸品
金銅透彫華鬘 附 金銅透彫華鬘(鎌倉) - 重要文化財書跡
長命寺文書 附 長命寺参詣曼荼羅・観心十界曼荼羅(平安から近代)
- 参考
- 『神話から読み、知る日本の神様』(加来耕三著)
- 『近江八幡の歴史 第六巻 通史Ⅰ』(近江八幡市史編集委員会)
- 『近江山河抄』(白洲正子著)