宮下純さんは、世界中どこででも食べていけるからと、バーテンダーの道を歩みはじめた。大阪の帝国ホテルなど日本を代表するホテルバーで修業し、2005年、彦根の四番町スクエアで「Bar Thistle(バー・シスル)」をオープンした。オーセンティックバーである。掲げたコンセプトは「ふつう」であること。「ふつう」の解釈は難しい。宮下さんの場合、それは文字通り「普(あまねく)通る」世界標準をいう。一流のバーと比べても遜色がない品揃えと品質管理、技術や接客、空間デザインの全てに妥協しない高い基準である。
2010年、ホテルサンルート彦根1階に移転。「Salon Bar Thistle(サロンバー・シスル)」は全国から客が訪れ、全国レベルで通用する人材が育つ名店として知られるようになった。
宮下さんの元を巣立った多くの若者が各地で活躍している。「特別なことはしません。マニュアルで教えるのではなく、自分が常に全国の舞台で戦い、高いレベルの仕事を続ける。その背中を見せるだけです」。理念や哲学は、言葉で語るだけでは浸透しない。それが宮下さんの人材教育の「ふつう」なのである。
Salon Bar Thistle店長の山形昇司さんは今年7月、全国のホテルバーテンダーが腕を競う権威あるコンペティションで、総合優勝と最高技術賞をダブル受賞した。これは、宮下さんの「世界基準のふつう」が、技術だけでなく精神性においても継承されていることを意味する。
信頼できる後継者が育ったからこそ、宮下さんは安心して新たな醸造事業に向き合うことができた。これは、多くの経営者が直面する事業承継の理想と言えるのではないだろうか。
バーテンダーから醸造家に
しかし2020年、コロナ禍で「世界中どこでも」のはずが立ち行かなくなった。そこで宮下さんは「新たな『ふつう』を自ら創り出すしかない。ちょうどバーテンダーとして20年の節目でもあり、ビール醸造に挑む」決心をした。
近江八幡市の「TWO RABBITS BREWING COMPANY」で修業を積み、2024年、「くにうみ醸造所」が誕生する。国生み神話に登場するイザナミ・イザナギの二柱の神を祀る多賀の地で、新たな価値を創造するという決意を込めた名前である。
「多賀は私の故郷です。私は歴史を知ることが好きで、この場所にはインスピレーションを刺激する様々な物語や風景があります。多賀町の歴史や風土をビールに込め、魅力を伝えることができれば」。宮下さんはそんなことを考えていたという。
「ふつう」をレベルアップ
宮下さんが手掛けるのは、近年のクラフトビール界で流行している強い個性を持つIPA(インディア・ペールエール)とは一線を画し、本場スコットランドで日常的に飲まれている「スコティッシュエール」のような、滋味深く、バランスの取れたクラシック スタイルである。
「私が作りたいのは、突出した個性で魅せるビールではなく、バランスの取れた、毎日でも飲めるような『ふつう』に美味しいビールです」。目先のトレンドに流されることなく、自らが信じる「ふつう」を追求する。宮下さんはクラフトビールをとことん突き詰め、レベルを上げていくのだろう。くにうみ醸造所、バーテンダーの背中が物語っていた。
醸造所にはビアレストラン「Brew Pub Thistle(ブリューパブ・シスル)」が併設され、今までとは異なる人の流れが生まれている。ビールを飲みに、近江鉄道に乗って多賀へ行く。土産は「くにうみ醸造所」のビール。それがスタンダードとなる日が来るに違いない。