長旅を終えて彦根に帰り着き、車窓から城が見えると「ああ彦根に帰って来たな」と実感する。彦根市民であれば、このような経験をされた方は多いのではないだろうか。現在の彦根城は、まちじゅうの様々な場所から目にすることができるシンボルである。
今回の連載では、周辺地域から城が見えることの意味を考えたい。

天守を中心とする外観

城全体の中心で、最も高いところにそびえているのが天守である。彦根城天守は、かつて大津城にあった天守を解体し、部材を再利用して建てたものと伝えられている。関ヶ原の戦いのとき、大津城は西軍の攻撃によく耐え、東軍の勝利に大きく貢献した。そのため、「めでたい天守」であるとして、徳川家康の命令によって井伊家に与えられ、彦根城へ移築されたという。
天守に登ってみると分かるように、内部はがらんどうで、居住用の建物ではない。史料によると、天守の内部には、歴代藩主の甲冑などが保管されていた。山麓の御殿に住む藩主が城山を登る機会は滅多にないが、藩主の代替わりのときには、重臣たちとともに天守へ登り、儀式をしていたことが分かっている。このとき藩主は、京都の天皇と江戸の将軍の方角に向かって拝礼し、彦根藩主としての役割を継承することを誓っていた。
天守とは、井伊家の権力が将軍から認められたものであることを示すシンボルであり、それが歴代の藩主に受け継がれてきたことの証であった。

城山にそびえる彦根城天守

象徴的な外観が意味するもの

江戸時代、天守を中心とする城全体の象徴的な外観は、城下町や周辺の農村、琵琶湖や松原内湖の湖上から目にすることができた。当時の城下町には平屋建てか2階建ての低層住宅しか存在しなかったことを考えると、丘の上にそびえる巨大な城郭は、現代の私たちが想像する以上の心理的効果を与えていただろう。それは、彦根藩領に暮らす領民にとって、地域に安定をもたらす彦根藩の権力の象徴であり、その背後にある徳川幕府の権威を暗示するものだったに違いない。

松原内湖跡から見た彦根城

明治時代になって城が不要になり、1878年、陸軍省によって彦根城が取り壊されようとしていたが、彦根を訪れた大隈重信が明治天皇に進言し、保存が決定した。大隈の回顧録によると、解体直前の天守を見つめながら、ある旧藩士が「自分たちの先祖は、もしものときに主君のところに駆けつけて、あっぱれと褒められるような働きをする覚悟で天守を仰ぎ見ていたが、それがもう見られなくなる」と痛切な面持ちで語ったという。大隈は、この言葉に心を動かされた。
旧藩士だけではない。最近、彦根城博物館による「井伊家近代文書」の調査によって、城下町の住民代表らが天守を保存するために払い下げを受けようとしていたことが明らかになった。彼らは、明治になって彦根の町が衰退する中で、人々の心を結びつけるものとして天守が必要だと語っている。 城山にそびえる天守は、家臣にとっては藩主との主従関係を象徴するものであり、領民にとっても地域の大切なシンボルだった。明治になって、時代の流れに逆らってでも、彼らはそれを残したいと願った。彦根城の象徴的な外観は、昔も今も、地域の人々の心を結びつける重要な役割を果たしている。