「オオトックリイチゴ」はバラ科キイチゴ属の一種で彦根城の固有種である。平成になって天秤櫓前に株分けされたものが観光客に公開されている。
森川許六は明暦2年(1656)、代々武術指南役を務める彦根藩士の家に生まれた。21歳の時に彦根藩第三代井伊直澄に仕え、元禄2年(1689)に300石を禄した。
城下町の整備が進む元和3年(1617)、彦根藩第2代直孝が遠江国井伊谷(現:静岡県引佐郡引佐町)の龍潭寺五世の昊天崇建禅師(南渓禅師の弟子)を招き創建したのが、佐和山の麓の龍潭寺である。
彦根城でもうすぐ桜の花が咲き誇る。日本の桜の名所のほとんどは、紀元二千六百年記念や戦後復興の町づくりとして植えられたものだといわれている。実は、彦根城の桜は、吉田繁次郎が昭和9年(1934)に植え始めたものだ。紀元二千六百年記念の桜よりも更に古い。
『茶湯一会集』は井伊直弼が著した茶書である。茶事について、心構え、準備など全てのプロセスを具体的に述べたもので、現在でも流派を問わず茶の湯のバイブルとして用いられている。
「埋木舎」と呼ばれる建物は、宝暦9年(1759)に藩の公館として建築されたものだ。この一画は尾末町と呼ばれ、100石前後の中級藩士の屋敷が並ぶ武家町だった。
2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」、主人公は「渋沢栄一」。商工会議所の創始者でもある。「企業は利益を上げなければならないと同時に、公益についても考えなければならない。両者は高い次元で両立する」という渋沢の理念は、会議所の活動理念そのものだ。
宗安寺は、現在の夢京橋キャッスルロードの琵琶湖側、ほぼ中央に位置し、「赤門」「朝鮮通信使宿泊所」で知られる寺である。江戸時代には彦根藩の集会所の役割を果たし、大坂冬・夏の陣戦死者の追弔会や、明治5年(1872)廃藩置県後には一時犬上県庁が設置されたこともあった。彦根の歴史を語るうえでも重要な寺である。
宗安寺は彦根藩初代井伊直政と共に在った上野国(現群馬県)の安国寺に由来する。安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が室町幕府の全国平定を願い、暦応元年(1338)からおよそ10年の間に、各国に一寺を選び安国寺の称号を与えた中のひとつだ。
長曽根港は明治17年(1884)、地元の醵金をもって築港された。今も残る波止一文字(なみどめいちもんじ)は、彦根の経済の発展を願った先人の物語が潜んでいる。
スミス記念堂は、キリスト教日本聖公会彦根聖愛教会のアメリカ人牧師のパーシー・アルメリン・スミス氏が、両親への感謝の思いと両国民の平和交流を願い、昭和6年(1931)に建設したものだ。
井伊直興は、日光東照宮修造の惣奉行を務め、槻御殿(玄宮楽々園)造営や松原港、長曽根港も改修した当時の建設事業第一人者である。その直興自らが院主となり、彦根城の鬼門除けと領内の安泰と近江代々の古城主の霊を弔うために建立したのが大洞弁財天である。
「大洞の弁天さん」と親しみを込めて呼ばれるこの寺は、彦根藩井伊家4代直興の発願により、元禄8年(1695)から翌年の9年にかけて甲良大工が伽藍を建造したことで知られている。大洞弁財天の正式名称「真言宗醍醐派長寿院」は直興の院号に由来している。
彦根市中央町の長松院には、最古の自転車「新製陸舟奔車」を発明したとされる彦根藩士・平石久平次時光の墓が遺されている。一方で、武州北堀村(埼玉県本庄市北堀)では享保14年に「陸船車」が発明されていたという。世界初の自転車ははたしてどちらなのか。
千代神社はかつて佐和山の麓(古沢町)にあった。本殿の裏の林で蝉捕りやターザンごっこをして遊んだ記憶を持つ人も多い。国道8号線佐和山トンネルの手前、マルハン彦根店の南側の駐車場からネクステージ彦根店の辺りが境内地で、ネクステージの建物のところが拝殿、更に山側に本殿があったようだ。
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